トラッキングエラー
グラントの戦略の最後の段階は、北軍が使う渡河地点からペンバートンの注意を逸らすことだった。グラントは2通りの作戦を選んだ。ビックスバーグの北、スナイダーズ・ブラフに対するシャーマン隊の陽動行動(下記スナイダーズ・ブラフの戦いを参照)と、グリアソンの襲撃と呼ばれるベンジャミン・グリアソン大佐によるミシシッピ州中部の騎兵隊による大胆な襲撃だった。シャーマン隊の戦闘は引き分けに終わったが、グリアソンの襲撃は成功した。グリアソンはその部隊を追跡するかなりの数の南軍部隊を引き付けることができ、ペンバートンの防衛力は州内遠くまで拡散することになった(ペンバートンはナサニエル・バンクスの部隊がバトンルージュから川を遡りポートハドソンを脅かすことが差し迫っていることも心配していた)。 ユリシーズ・グラント少将のテネシー軍はこの方面作戦を約44,000名の勢力で開始し、7月には75,000名にまで脹れ上がった。5個軍団で構成された。ジョン・A・マクラーナンド少将の第13軍団、ウィリアム・シャーマン少将の第15軍団、ジェイムズ・B・マクファーソン少将の第17軍団、カドワラダー・C・ウォッシュバーン少将の第16軍団の分遣3個師団、エリアス・S・デニス准将の北東ルイジアナ地区軍からの分遣隊だった。ジョン・G・パーク少将の第9軍団が6月半ばに合流した。 南軍ジョン・C・ペンバートン中将のミシシッピ軍はおよそ30,000名であり、ウィリアム・W・ローリング、カーター・L・スティーブンソン、ジョン・H・フォーニー、マーティン・L・スミス、およびジョン・S・ボウェン各少将の5個師団で構成された。 ミシシッピ州レイモンドとジャクソンにはジョセフ・ジョンストン将軍の西部方面軍の一部6,000名の部隊がおり、ジョン・グレイ准将、ペイトン・H・コルキット大佐およびウィリアム・H・T・ウォーカー准将の旅団を含んでいた。 グラントのビックスバーグに対する作戦行動以下の戦闘はビックスバーグ方面作戦で「グラントのビックスバーグに対する作戦行動」段階を構成するものである ポーター提督は不動産投資 の鋼製被覆砲艦を率い、グランド湾の要塞と砲台を沈黙させその地域をマクラーナンドの第13軍団で確保する意図で攻撃を始めた。輸送船や艀も伴っていた。7隻の鋼製被覆砲艦による攻撃は午前8時に始まり、午後1時半まで続いた。この戦闘中、鋼製被覆砲艦は南軍大砲から100ヤード (90 m)以内まで接近しウェイド砦の下部砲台を沈黙させた。コバン砦の上部砲台までは届かず、砲撃が続いた。北軍の鋼製被覆砲艦(そのうちの1隻USSタスカンビアは動けなくなった)と輸送船は後退した。しかし、暗闇が訪れてから、鋼製被覆砲艦が再度南軍の大砲に砲撃を始め、その間に蒸気船や艀は難所を擦り抜けた。グラントはその軍隊を陸路進ませ、グランド湾の下流カフィ・ポイントまで進ませた。輸送船がグランド湾を過ぎた後で、ディシャルーンのプランテーションで兵士を載せ、グランド湾より下流のブルーンズバーグで川向こうの岸に降ろした。この部隊は直ちに陸路をポートギブソンに向かった。南軍は空しい勝利を得た。グランド湾での損失はグラントの攻勢にほとんど影響しなかった[8]。 北軍の陸軍と海軍の連合部隊がスナイダーズ・ブラフの攻撃を装い、グランド湾の南軍部隊を助けるための部隊が動かされないようにした。4月29日の正午過ぎ、K・ランドルフ・ブリーズ海軍少佐がその8隻の砲艦と10隻の輸送船でフランシス・P・ブレア少将の師団を運び、ヤズー川を少しずつ遡り、チカソー・バイユーの入り口まで進んでそこで夜を明かした。翌朝9時、北軍は1隻の砲艦を残して川を遡り、ドラムグールズ・ブラフに至って敵の砲台と交戦した。この戦闘中にUSSチョクトーが50発以上被弾したが、人命の損失は起こらなかった。午後6時頃、部隊は上陸してブレイク堤防にそって前進し砲台に向かった。ドラムグールズ・ブラフに近付いたときに砲台からの砲撃が始まり、大混乱と損失を引き起こした。北軍の前進は止まり、暗くなった後で、部隊は再度輸送船に乗艦した。翌朝、輸送船は別の部隊を降ろした。湿地の多い地形と敵の激しい砲火のためにこの部隊も撤退を余儀なくされた。5月1日午後3時頃に砲艦が再度砲火を開き幾らかの損失を与えた。その後砲艦からの砲撃が緩み、暗くなると共に終熄した。シャーマンはその部隊をミリケンズ・ベンドに上陸させるよう命令を受けたので砲艦はヤズー川河口の停泊地に戻った[9]。 グラント軍はブルーンズバーグから内陸への侵攻を始めた。ポートギブソンに向けてロドニー道路を前進すると夜半後に南軍の前哨基地に行き当たり3時間もの間小競り合いを続けた。午前3時過ぎ、戦闘は停止した。北軍はロドニー道路を前進し夜明けにはプランテーションの道路を進んだ。午前5時半、南軍が北軍の前を遮り戦闘が始まった。北軍は南軍を後退させた。その日南軍は何度か新しい防御陣地を拵えたが、北軍の猛攻を止められず夕方前に戦場を払った。この南軍の敗北はもはやミシシッピ川の戦線を守れないことを示しており、北軍は足掛かりを掴んだ[10]。 この時点でグラントはある決断をした。CFD の命令ではグランド湾の砦を占領し、続いて南に向かってバンクス軍と合流しポートハドソンを陥れた後に、その連合軍でビックスバーグに戻ってこれを征服するというものだった。グラントにとって不幸なことに、そのような経路を辿ればグラントは上級の少将であるバンクスの下に付くことになり、この戦線での功績もバンクスのものにされてしまうということだった。バンクスはレッド川での作戦に忙殺されており、次の数日間のうちにポートハドソンに対する作戦を開始する準備ができていないと伝えてきたので、グラントは自軍をビックスバーグに向けることに決めた。ハレックにはその意図を報せる伝令を送ったが、ワシントンがこの伝言を受け取って返事を返すまでに8日間は掛かる事を知っていた。 北軍がグラインドストーン浅瀬を掴んだ後は、ビッグ・バイユー・ピエールとビッグブラック川の間にいる南軍部隊は危険に曝された。グランド湾の守将ボウェンはこのことを認識してグランド湾を放棄し、全速でビッグブラック川を渉るハンキンソン浅瀬に進み、辛くも北軍の罠に嵌ることを免れた。この時のグラントの心積もりはその南軍と同じ経路を辿って北上し直接ビックスバーグに向かうことだった。しかし送り出した偵察隊はペンバートンが市の南に強固な防御陣地を布いていることを見出した。グラントはジャクソンからビックスバーグに向かう鉄道を抑えることで市の供給線を遮断することに決めた。その3個軍団(シャーマン軍団は川を渉って到着していた)に3つの異なる経路を進んで、エドワーズ駅(マクラーナンド軍団の東端の目標)、クリントン(マクファーソン軍団の西端の目標)およびミッドウェイ駅(シャーマン軍団の中央の目標)で鉄道を攻撃するよう命令を出した。 5月10日、ペンバートンは外貨預金 に到着している援軍全てに20マイル (32 km)南西のレイモンドに進軍するよう命令を出した。ジョン・グレッグ准将の通常より多勢の旅団がポートハドソンからの困苦した行軍に耐えて到着し、翌朝にはレイモンドに向かい、5月11日午後遅くに到着した。5月12日、グレッグ旅団はフォーティーンマイル・クリークで北軍の襲撃隊を待ち伏せるために動いた。襲撃隊は第17軍団のジョン・A・ローガン少将の師団から出たものと分かった。グレッグはフォーティーンマイル・クリークの渡しで戦うことにして、その部隊と大砲を並べた。ローガン隊が接近すると南軍が砲火を開き、最初は大きな被害を出させた。北軍の部隊の幾つかが破れたが、ローガンが部隊を鼓舞し戦線を保った。南軍がこの戦線を攻撃したが、後退を強いられた。北軍の追加部隊が到着し反撃に転じた。激しい戦闘が6時間も続いたが勢力に勝る北軍が圧倒した。グレッグ隊は戦場を後にした。南軍は戦いには敗れたが、遙かに優勢な北軍に対してまる1日持ち堪えた。グレッグ将軍は優勢な敵を前にジャクソンまで撤退する命令を受け、ジャクソンに向かう途中のミシシッピスプリングスまで5マイル (8 km)後退した。この後退でミシシッピ州のサザン鉄道は北軍の攻撃に曝され、ビックスバーグの生命線が脅かされた[11]。 マクファーソンは勝利したが、グラント軍の右側面を攻撃する南軍が存在することで、その作戦を再考することになった。グラントは南軍ジョセフ・ジョンストン将軍の部隊はジャクソンに在って、数日のうちには援軍が来ることを知り、またP・G・T・ボーリガード将軍も投資信託 に到着するという噂があった。この状況で、北軍は両側面に敵軍を抱えることになった。それ故に先ず東からの脅威に対応することにし、シャーマンとマクファーソンにはジャクソンを占領する命令を出した。 5月9日、ジョンストン将軍はアメリカ連合国陸軍長官から「直ちにミシシッピ州に進み地域全軍の指揮を執るよう」指示する伝言を受け取った。5月13日に中部テネシー州からジャクソンに到着すると、シャーマンとマクファーソンの2個軍団がジャクソンに進軍しており、グレッグは市を守るためにわずか約6,000名しか擁していないことを知った。ジョンストンはジャクソンの明け渡しを命令したが、グレッグは明け渡しが完了するまでジャクソンを守った。午前10時までに北軍の両軍団がジャクソンに近付き、敵と交戦した。雨と南軍の抵抗とお粗末な防御で激戦も午前11時頃までとなり、数に勝る北軍が緩りだが確実に敵を後退させた。正午頃にジョンストンが明け渡しが完了したのでグレッグも戦闘を止め付いてくるようにグレッグに伝えた。その後間もなく、北軍はジャクソン市に入り、シャーマン軍団に同行していたグラントがボーマン・ハウスで祝賀会を開いた。続いて町の一部を焼き、多くの工場を破壊し、ビックスバーグに向かう鉄道の連結を外した。ジョンストンの明け渡しは、退去時5月14日遅くまでに11,000名の部隊がおり、5月15日の朝には4,000名が追加されたことを考えると誤りと見なされている。元ミシシッピ州州都の陥落は南軍の士気にとって打撃だった[12]。 ジョンストンはその軍隊の商品先物取引 でキャントン道路を撤退したが、ペンバートンにはエドワーズ駅を発ちクリントンで北軍を攻撃するよう命令した。ペンバートンとその部下の将軍達は、ジョンストンの作戦が危険なものと感じ、その代わりにグランド湾からレイモンドに移動している北軍の輜重隊を攻撃する事にした。しかし、5月16日、ペンバートンはジョンストンから以前の指示を繰り返す命令を受け取った。ペンバートンは既に輜重隊の追跡を始めており、レイモンド・エドワーズ道路の上にあって、その後衛はチャンピオンヒルの尾根から南3分の1マイル (500 m)の交差点にあった。かくしてペンバートンが反転を命じたとき、多くの物資荷車を含む後衛は軍隊の先頭になった。