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フッドはアラバマ州タスカンビアまで移動し、1個師団だけで10月31日にテネシー川を渉った。そこにいた北軍騎兵隊はあまりに弱くてその渡河を阻止できなかったが、フッド軍の所在について貴重な情報を供給できた。一方、10月30日、シャーマンもスコフィールドに第23軍団を付けてトーマス軍のところへ派遣し、アンドリュー・J・スミス少将の軍団にはナッシュビルへ移動するよう命令した。シャーマンはフッド軍に対処するためにトーマスに十分な軍隊をあてがったと確信し、ジョージア州を移動する行軍に備え始めた。11月10日までにシャーマン軍はアトランタへ戻り始めた。 フッドはフォレストが戻るのを待ちながらフロレンスで3週間を過ごし、フォレスト隊は11月18日に帰ってきた。一方トーマスはシャーマンから迅速に行動するよう催促されていたものの、その緩りとまた慎重な将軍という評判をここでも発揮していた。フッド軍は3隊で進軍しテネシー州コロンビアのダック川渡しを占領しようとしたが、これが成功すれば、トーマス軍とスコフィールド軍を引き離すところだった。11月22日、スコフィールドはコロンビアを確保するために2個師団を北へ急行させ、最初の部隊は11月24日に到着して、フォレストが橋を掴む前に間に合った。 北軍は町の南に土塁による2つの戦線を構築し、11月24日と25日は南軍の騎兵隊と小競り合いを行った。翌日フッドはその歩兵隊を前進させたが攻撃は行わなかった。前線で示威行動を行わせながら2個軍団ダック川沿い5マイル (8 km)東のデイビスフォードに進ませた。スコフィールドはフッド軍の動きを正しく掴んでいたが、悪天候のために11月28日以前に南軍が北岸に渉るのを阻止できず、コロンビアを明け渡した。翌日両軍は北のスプリングヒルに進んだ。スコフィールドはフッド軍の動きを遅らせたが止めることはできなかった。 南軍が前進する間に、北軍ジェイムズ・H・ウィルソン准将の騎兵隊と南軍フォレストの騎兵隊との間に小競り合いが終日続いた。スコフィールドは部隊を補強し、スプリングヒルの交差点を抑えた。午後遅く、北軍は南軍歩兵隊の散発的な攻撃を撃退した。夜の間に、スコフィールドの残りの部隊はコロンビアからスプリングヒルを通ってフランクリンまで移動した。この時がフッドにとって北軍を孤立させ打ち破る最善の機会だったはずだが、その部下達(チーザムとスチュアート)は緩りとしか動かず協調もなかったので、トーマス軍が妨害もなくフランクリンに移動することを許した。 スコフィールドは11月30日の日の出頃にフランクリンに到着し、直ぐに町の南縁で1863年春の第一次フランクリンの戦いで北軍が構築していた防塁に防御線を作り上げた。これは川を背にして守ることになるので危険な戦略だった。舟橋が到着して居らず、それに積んだ物資も得られなかったので、川を渉ることができなかった。午後4時頃、フッドが北軍前線に対して正面攻撃を掛けた。前進陣地を守っていた北軍の2個旅団が圧倒されて内側の防塁に撤退したが、その僚隊が最後まで持ち堪え大きな損失を出させた。夕暮れ後に戦闘が熄むと、南軍は6人の将官が戦死または致命傷を負っていた。 フッド軍は緩りとFX 軍をナッシュビルに追った。フッド軍はこの時弱体化しておりもはや攻勢を採る状態ではなかったこともあり、後に議論を呼ぶ動きになった。しかし、フッドはもし撤退を命じれば軍隊の完全な崩壊に繋がると感じていた。ナッシュビル・アンド・チャタヌーガ鉄道を破壊し、マーフリーズバラの北軍補給基地を混乱させれば、有利になると決心した。12月4日、フォレストの2個騎兵師団にウィリアム・B・ベイトの歩兵師団を付け、マーフリーズバラに派遣した。フッドはベイトにマーフリーズバラとナッシュビルの間の鉄道と小要塞を破壊し、その後はフォレスト隊に合流するよう命じた。 フォレストの複合部隊はマーフリーズバラを攻撃したが、撃退された。鉄道の軌道、小要塞および幾つかの家屋を破壊し、全体的にその地域での北軍の行動を混乱させたが、それ以上のことはできなかった。マーフリーズバラ襲撃は小さな刺激に過ぎなかった。ベイトはナッシュビルに呼び戻されたが、フォレストはマーフリーズバラ近くに留まり、このためにナッシュビルの戦いに参戦できなかった。結果論で見れば、フッドがその主力部隊からフォレスト隊を離すと決めたことは大きなしくじりだった。 フッド軍は12月2日にナッシュビル郊外に到着し、北軍前線に並行する丘の線に陣地を占め、堡塁を築き始めた。トーマスは12月1日から12月14日までフッド軍を打ち破ろうとする戦闘の準備を行った。ワシントンからは攻撃しろという多くの圧力を受けていた。文民政治家や軍の上層部はどちらも、テネシー州におけるフッドの侵攻やバージニア州におけるグラント対リーの手詰まりに神経質になっていた。トーマスは12月8日に攻撃の準備が出来たが、降雪のために延期し、ワシントンをさらに怒らせた。12月13日、ジョン・A・ローガン外国為替 がナッシュビルに向かい、到着した時にトーマスがまだ行動を起こしていなければ指揮を執れと指示された。ローガンは12月15日までにケンタッキー州ルイビルまで進んだが、その日にナッシュビルの戦いが始まった。 トーマスはフッドの両側面を叩く作戦であり、右翼に小さな攻撃を行い左翼を主力の攻撃とする考えだった。12月15日の夜明け前、ジェイムズ・B・スティードマン少将の師団が南軍の右翼に当たり、その日の残りは1個軍団を釘付けにした。左翼へのFX はスコフィールドが2個軍団と1個師団を指揮し、午後のモンゴメリーヒルへの突撃で始まり、南軍全線を壊滅させる効果があった。フッド軍は打ちのめされたが潰走まではしなかった。暗闇と共に戦闘が終わり、フッドは2日目の戦闘のために編成を立て直した。元の位置よりも約2マイル (3 km)南の尾根麓に沿って主立る抵抗線を構築し、その側面には新しい防塁を急拵えし丘を防塞化した。北軍は前進して南軍の新しい前線に接近し、12月16日の朝に、堡塁の建設を始めた。この日もトーマスは両側面を衝く考えであったが、南軍の防御を施した右翼への最初の攻撃は不成功だった。その後にスコフィールド、スミスおよびウィルソンによる力強い左翼の攻撃が行われ成功した。その攻撃で気を良くしたトマス・J・ウッドとスティードマンが右翼への攻撃を再開し、南軍を圧倒した。フッド軍は崩壊し、激しい雨の中をフランクリンの方向に逃げ出した。 北軍はフッド軍の追撃に移った。雨が南軍にとっては幸いとなり、北軍騎兵隊の追撃を遅らせ、フォレスト隊が12月18日にフッド軍に合流して退却する軍隊を遮蔽した。この追撃は、打ちのめされたテネシー軍が12月25日にテネシー川を再度渉って戻るまで続いた。 フッド軍はコロンビアで止められ、フランクリンで叩かれ、そしてナッシュビルで潰走した。フッドはミシシッピ州テュペロまで撤退し、1865年1月13日に指揮官を辞任した。フォレストはミシシッピに戻ったが1865年にジェイムズ・H・ウィルソンによってアラバマ州内に追われ、その部隊は消散し力を失った。 ナッシュビルでフッドFX が破れるまでに、シャーマン軍はサバンナ郊外まで進出し、クリスマス前にこれを占領した。元テネシー軍から5千名の兵士がジョセフ・ジョンストン将軍の下に集まり、サウスカロライナ州でシャーマン軍と対抗したが、もはや焼け石に水だった。 フランクリン・ナッシュビル方面作戦は南北戦争西部戦線では最後の重要な戦いだった。 ブランディステーションの戦い(のたたかい、英:Battle of Brandy Station、またはフリートウッドヒルの戦い、英:Battle of Fleetwood Hill)は、南北戦争で、すなわちアメリカの国土で起こった大半が騎兵同士の戦闘としては最大のものである[3]。ゲティスバーグ方面作戦の初め1863年6月9日に、北軍アルフレッド・プレソントン少将の騎兵隊と南軍J・E・B・スチュアート少将の騎兵隊との間の戦いだった。 プレソントンはブランディステーションでスチュアートの騎兵隊に夜明けの急襲を掛けた。まる1日続く戦闘で何度も攻守ところを変え、最後に北軍が撤退したが、ロバート・E・リー将軍の歩兵部隊がカルピーパー近くで宿営しているのを見付けられなかった。この戦闘によって、東部戦線のそれまでは南部優勢で推移していた騎兵同士の戦いの様相が変わった。戦争のこの時点から北軍の騎兵隊は力強さと自信を得るようになった[4]。 南軍の北バージニア軍は1863年5月のチャンセラーズヴィルの戦いにおける勝利の後、バージニア州カルピーパー郡に雪崩れ込んだ。ロバート・E・リー将軍の指揮の下に、軍隊はカルピーパー周辺に集合し、ペンシルバニア州侵攻のための準備をした。この軍隊には常に飢えとお粗末な装備という敵が見え隠れしていた。リーは北部を攻撃して、軍隊のために馬、装備と食料を確保することにした。フィラデルフィア、ボルティモアおよびワシントンD.C.といった大都市に脅威を与えれば、北部で膨らみつつある休戦運動を奨励できる可能性があった。6月5日までにジェイムズ・ロングストリートとリチャード・イーウェル各中将が指揮する2個歩兵軍団がカルピーパー周辺で宿営していた。カルピーパーの6マイル (10 km)北東にはラッパハノック川の前線を守って、スチュアートの騎兵隊が露営しており、敵の急襲から南軍を遮蔽していた[5]。 南部騎兵の大半はブランディステーション近くで宿営していた。スチュアートは「突撃する騎兵」とか「美しいサーベルを持った騎兵」という評判に相応しく[6]、リー将軍によるその部隊の野戦演習の査察を求めた。6月5日に行われたこの大演習には、9,000名近い騎兵と4個騎馬砲兵大隊が参加し、ブランディステーションから約2マイル (3 km)南西のインレットステーションでの模擬戦闘が行われた[7](この演習場は1863年の当時そのままに今も残っており、唯一つバージニア警察署がその一画に建っている)。 しかし、リー将軍はこの演習に参加できなかったので、6月8日にもリーの前で繰り返された。ただし、模擬戦闘は無く、単純な行進に限られた[8]。その行動レベルが低かったにも拘わらず、現場にいた騎兵や新聞記者の中には、スチュアートがやっていることが全て自我を満足させているだけで、馬を疲れさせていると不平を言う者もいた。翌日リーはスチュアートに、ラッパハノック川を越えて北軍の前哨陣地を襲い、南軍が北へ動くときの監視や妨害から遮蔽するように命令された。これから起こる攻勢を予測したスチュアートは、その疲れている騎兵達にブランディステーション近くの露営に戻るよう命令した[9]。 ブランディステーション周辺にスチュアートの約9,500名の部隊は、ウェイド・ハンプトン、W・H・F・"ルーニー"・リー、ビバリー・H・ロバートソンおよびウィリアム・E・"グランブル"・ジョーンズ各准将とトマス・T・マンフォード大佐(フィッツフュー・リー准将がリューマチの発作に襲われたときはリーの旅団を指揮した)の5個騎兵旅団と、ロバート・F・ベッカム少佐が指揮するスチュアート騎馬砲兵6個大隊で構成されていた[10]。 南軍には知られないうちに、北軍は11,000名がラッパハノック川の対岸に集結した。アルフレッド・プレソントン少将はポトマック軍の騎兵軍団を指揮し、その複合部隊を2つの「翼」にわけ、それぞれション・ビュフォードとデイビッド・M・グレッグ准将に指揮させ、さらに第5軍団から複数の歩兵旅団で補強していた[11]。ビュフォードの翼はプレソントンも同行し、ビュフォードの第1騎兵師団、チャールズ・J・ホワイティング少佐の予備役旅団およびアデルバート・エイムズ准将の歩兵旅団3,000名で構成された。グレッグの翼はアルフレッド・D・ダッフィー大佐の第2騎兵師団、グレッグ自身が率いる第3騎兵師団およびデイビッド・A・ラッセル准将が率いる歩兵旅団で構成された[10]。