ドルコスト平均法
5月16日午前7時頃、北軍は南軍と交戦しチャンピオンヒルの戦いが始まった。ペンバートン軍はジャクソン・クリークを見下ろす尾根の頂点に沿って防御的戦線を布いた。ペンバートンは北軍の1隊が防御の施されていない左側面に向けてジャクソン道路を進行してしることに気付かなかった。南軍の守りのために、スティーブン・D・リー准将の部隊をチャンピオンヒルに置き、この部隊が報告された北軍の交差点に向かう動きを見張ることができた。リーは北軍を見つけ、北軍もリー隊を見つけた。この軍隊を止められなければ、南軍はビックスバーグから切り離されてしまう可能性があった。ペンバートンは北軍の進行に関する警告を受けて、その左側面に部隊を派遣した。チャンピオンハウスにいた北軍は行動に移り、大砲を据えて砲撃を始めた。グラントが午前10時頃にチャンピオンヒルに到着すると攻撃開始の命令を下した。午前11時半までに北軍は南軍の主要前線に達し、午後1時頃丘の頂点を占領したので、南軍は隊列を乱して撤退した。北軍は前進を続け、交差点を取り、南軍の退却路であるジャクソン道路を抑えた。ペンバートン軍のボウェン師団が反撃を始め、北軍をチャンピオンヒルの頂点の向こうまで押し返したが、その活躍もそこで止まった。続いてグラント軍が反撃に転じ、ボルトンを通ってクリントンから到着したばかりの部隊を投入した。ペンバートン軍はこの攻撃を耐えられず、その戦場からまだ抑えられていない退却路であるバンカーズ・クリークと交差するレイモンド道路の方への移動を命じた。ロイド・ティルマン准将の旅団が殿軍を務め、あらゆる犠牲を払って後衛を日経225 した結果、ティルマンが戦死した。午後に北軍はベイカーズ・クリーク橋を占領し、夜半までにエドワーズを占領した。南軍はビックスバーグに向けて総退却した[13]。 南軍は5月16日から17日にかけての夜にビッグブラック川橋まで後退した。ペンバートンはボウェン准将に3個旅団を付けて、川の東岸に防衛線を布かせ北軍の追撃を遅らせようとした。マクラーナンド軍団から3個師団が5月17日の朝にエドワーズ駅を進発した。この軍団は胸壁の背後にいる南軍に遭遇し、敵の大砲が砲撃を開始したので物陰に隠れた。北軍ユージーン・A・カー准将師団のマイケル・K・ローラー准将がその第2旅団を率い、川の蛇行跡から飛び出して南軍の前面を横切り、胸壁の内側に入り、南軍ジョン・C・ボーン准将の経験の足りない東テネシー旅団を襲った。南軍は混乱して恐慌を来たし、2つの橋を使ってビッグブラック川を渉り撤退を始めた。川には鉄道橋と川を横切るように係留された蒸気船のドックがあった。川を渉りきるや否や、南軍は橋に火をつけて迫り来る北軍の追撃を妨害した。その日遅くにビックスバーグに逃げてきた南軍はバラバラだった。北軍はビッグブラックで1,800名の南軍兵を捕獲し、南軍にとっては痛い損失になった[14]。 ビックスバーグの包囲戦詳細はビックスバーグの包囲戦を参照 北軍はビックスバーグに集結し、ペンバートン軍を囲んだ。グラントは5月19日と22日の2回、南軍の強固な堡塁を突破することを試みた。2回目の攻撃では当初マクラーナンド軍団がいくらかの成功をみたが、3,200名の損失を出してFX された。ジョンストンはペンバートンに対して、町を放棄して軍隊を救うよう命令を出したが、ペンバートンは安全に撤退するのは不可能と考えた。ジョンストンはグラント軍を攻撃してペンバートン軍を救出しようと作戦を練ったが、その手配が間に合わなかった。グラントは南軍に対して包囲戦を布いた。7月4日、ビックスバーグの兵士と市民が食糧の補給が無く常に砲撃を受けた6週間の後に、ペンバートンは市と軍隊と共に降伏した[15]。 グラントは前面のペンバートン軍に加えて後方の南軍の動きを心配しなければならなかった。ビッグブラック川橋の近くに1個師団を置き、遥か北のメカニクスバーグまで偵察させ、どちらも本隊を守るようにさせた。6月10日までにジョン・G・パーク少将の第9軍団がグラントに指揮下に送られてきた。この軍団は、キャントンに軍隊を集めたジョンストンが包囲を破ろうとする動きを抑える特別任務の中核になった。シャーマンがこの任務を与えられ、6月22日には第15軍団にあったフレデリック・スティール准将が交代した。ジョンストンは最後にペンバートン軍解放の動きを初め7月1日にビッグブラック川に到達したが、現実に対応が難しいシャーマン軍と遭遇することになって、ビックスバーグ守備軍救出には遅すぎ、その陥落後にジャクソンに引き返した[16]。 ビックスバーグ包囲戦の間、その近郷で他に3つの戦いが起こった。 包囲中のグラント軍の補給を遮断するために、投資信託 はミシシッピ川上流のミリケンズ・ベンドの補給地域を攻撃した。これは主に訓練が積まれていなかったアフリカ系アメリカ人部隊に防衛された。彼等は劣った装備で勇敢に戦い砲艦の助けもあって南軍を撃退したが、損失も大きく652名となり、南軍は185名の損失だった[17]。 北軍がルイジアナ州の川沿いの郡部占領を始めた後で、数千もの逃亡奴隷が集まってきた。それ故に北軍は幾つかのプランテーションを借りて解放奴隷をそこで働かせ綿花や穀物を育てさせた。穀物を売ってでた収益は食糧や衣類などの費用に当てられた。アフリカ系アメリカ人の部隊はこれらプランテーションを守る任務を与えられ、他の部隊が戦えるようにした。南軍はこれら解放奴隷を再度捕獲し穀物を破壊することにし、アーカンソー州ゲインズ・ランディングからレイクプロビデンスに遠征した。南軍は北軍の行動を混乱させ。多くの財産を破壊し物資や荷馬車を捕獲したものの、この襲撃は北軍にとっては小さな後退に過ぎなかった。南軍は束の間の混乱を生むことができたが、継続的な事態の変化までは与えられなかった[18]。 南軍のテオフィロス・H・ホームズ中将の部隊がビックスバーグに対する圧力を弱めようとアーカンソー州ヘレナを攻撃した。南軍の勢力が上回り、当初は砦の部分を占領したが、北軍が撃退した[19]。 南軍はビックスバーグの戦いと包囲での死傷者は2,872名と比較的少なく、北軍は4,910名の損失を出したが、グラントが南軍の1軍隊全部を降伏させることは2回目(1回目はドネルソン砦の戦い)であり、29,495名を捕虜にした[20]。南軍兵の大半は釈放された。北軍はかなりの分量の大砲、小火器および弾薬も捕獲した。3月29日から始まったビックスバーグ方面作戦全体では北軍の死傷者10,142名に対し、南軍は9,091名だった[21]。 この結果は1863年の夏に外国為替証拠金取引 が受けた2つ目の大きな打撃だった。7月3日、ロバート・E・リー将軍による北部侵攻はゲティスバーグの戦いで崩壊した。7月4日、星条旗がビックスバーグに掲げられた。南軍にとって独立記念日の降伏は痛い敗北だった。北軍は行儀良く振舞い、南軍兵と混じって飢えた兵士達に食糧を渡した。食糧を確保し高い価格で売ろうと思っていた投機家はその倉庫がこじ開けられ、貯蔵品が飢えた反乱兵のために通りに投げ出されるのを見た。グラントはその自叙伝で「両軍の兵士はあたかも同じ側で戦っていたかのように親しく交わった」と書いた[22]。しかし、わだかまりは長引いた。ビックスバーグ市はその後81年間、7月4日の独立記念日を祝うことを拒み続けた[23]。 この方面作戦の最も重大な結果はミシシッピ川の北軍による支配であり、それはポートハドソンの陥落で完成された。ポートハドソンは5月27日以降バンクス軍に包囲されていたが、ビックスバーグ陥落の報せに接して7月9日に降伏した。南軍はこれで2つに分けられた。1週間後1隻の武装していない舟がセントルイスから川を下って何の支障もなく北軍が確保するニューオーリンズに到着した。リンカーン大統領は「水路の父が再び怒られもせずに海に通っている」と宣言した[24]。 グラントはシャーマンに50,000名の資産運用 を付けてジャクソンのジョンストン軍31,000名の向かわせた。ジョンストンはシャーマン軍を正面対決に誘い込もうとしたが、シャーマンはビックスバーグでそのようなことを行った結果を見てきた。シャーマンは直接対決を避け、市の包囲を始めた。ジョンストンはその軍隊を脱出させ、ペンバートンが成したことよりも大きなことではあったが、ミシシッピ州中部の全部がシャーマンの支配下に落ちた。シャーマンはその後のメリディアンに対する作戦行動では、後にジョージア州を抜ける海への進軍、続いてサウスカロライナ州で採用した焦土作戦の前触れとなった行動を採った。